打水文化研究事始 ー 打ち水の文化的背景について ー ※このテキストでは原文のまま「打ち水」を「打水(うちみず)」と表記しています。 |
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※1-1... 現代の「盛り塩」や相撲の土俵での塩などは、海水による浄化を起源とした「清め」の象徴的簡略化とも言えるでしょう。ただし「盛り塩」の場合、中国の故事に由来した「客の足をとめる」ための商売の縁起物という説もあります。現代でも日本料理のお店などでは盛り塩を見かけることがありますが、「客足をとめる」という縁起の意味と古来からの「清め」という意味が合わさったものと考えられます。 |
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日本の礼儀作法の習慣や大衆文化に大きな影響を与えたのは茶道と言っても過言ではないでしょう。茶道をはじめとする礼儀作法が近世において規律として確立し一般庶民へと定着していきましたが、馴染み深い「正座」の仕方も茶道から由来していると言われています。茶道は礼儀作法のみならず他の日本の伝統文化にも影響を与えており、庭園のスタイル、建築様式や建具類、置物、花、畳、懐石、菓子、掛軸や床の間なども少なからず茶道文化の精神が反映されています。日本の建築様式には「数寄屋造り」と呼ばれるものがありますが、これもまた茶道文化から派生した言葉であり、その構造や手法が茶室風の建築様式のことを指しています。 お茶の文化はもともと中国から渡来したものでありますが、千利休などによって日本のお茶の文化が形成されていくにあたって、仏教の影響があったことを無視する事はできないでしょう。茶の書である南方録には「茶の湯は、第一仏法を以て、修行得道する事なり」と書かれてありますが、お茶の文化には仏教特に禅の思想がその発展と精神形成において大きな影響を与えています。禅語に「茶禅一味(さぜんいちみ)」という言葉があるように茶は禅なしには成り立たないとまで考えられ、禅の修行僧の生活行動や振る舞いを細かく定めた生活規則がお茶の作法をかたちづくったとも言われています。江戸時代に茶の湯に精神規範的な道の思想がさらに付与されて「茶道」として確立し、都市文化の発展とともに武家社会から一般庶民へと茶道文化が普及していきましたが、ある意味お茶を通じて禅における仏教的な礼節精神が一般庶民へ浸透したとも言えるかもしれません。 茶道における礼節心は静粛なこころでお茶をいただき、人々の調和をはかってお互い敬うことがその基本となっています。一期一会(いちごいちえ)という言葉がありますが、これも元々はお茶に関係した禅語で「一生に一度の出会い」を意味しており、茶会において相手の人々に対し全身全霊をもって接するその心得をあらわした代表的な言葉として一般的に解釈されています。細かい礼節作法が取り決められた茶道では、打水もそのような茶道の精神性を意味する大事な作法となっていると言えるでしょう。 茶道ではその茶事の催しに先立ってお客を迎える30分ほど前に門の内外から玄関そして露地(茶庭)に打水をします。場合によっては数時間前から何度も水を打つこともあり、茶道における打水は夏冬関係なく行われます(※2-1)。 その目的として、塵埃を洗い流して茶の湯の環境を涼し気にしたり、門や露地の敷石を濡らすことによって風情を出すことを挙げることができますが、同時に打水は茶会の準備が整ったことをお客に知らせる暗黙の「しるし」も意味しています。そして打水には水による浄化としての「清め」の意味も含まれています。茶会の催される茶室は道場もしくは聖域とも言えますが、門から茶室に至る露地は言わば俗界と道場の境界であって世俗の塵を清める場所でもあります。門から露地にかけて打水をすることは聖なる場所への道を清めることでもあり、茶会に参加する人々が清廉なる心持でのぞみながらお互いに接するという意味でも大変重要な作法と言えるでしょう(※2-2)。 ※2-1... 茶道には「露地の三露」という言葉があります。お客を迎える前だけでなく、茶会の中立ちの時と茶会の終わりにさしかかった時にも打水することを言います。江戸時代の俳人である維然が茶会における打水を主題とした以下のような俳句を残しています。 「水さつと立はふわふわふうわふわ」 三露の打水によるやわらいだ空気と茶会における茶と人の交わりからかもし出された淡い風情を表現しているのでしょう。 ※2-2... 茶庭を意味する「露地」という語は法華経の「三界の火宅を出でて露地に住す」という言葉から由来しています。茶道の水による清めには打水のみならず、手水(ちょうず)という作法もあります。茶室に至る前に露地にある「蹲踞(つくばい)」と呼ばれる手水鉢の水で口と手を浄めなければなりません。
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打水という習慣が日本においていつ頃から一般的に習慣として広まったのか。それを検証するための資料が数少ないのも事実ですが、涼をとったり土埃をおさえる生活の知恵として早くから庶民に定着していたのではないかと思われます。江戸時代の俳句においても打水が涼の手段として一般的であったことを示す作品がいくつかありますが、水に対する節約意識が強かった庶民の生活感覚を踏まえれば、食物や顔を洗った水を暑い時節には打水として二次使用していたであろうと容易に想像できます。また商業の隆盛とともに「商店」が増えはじめる頃には、店先に並んだ商品に埃がかぶらないよう日常において打水をすることは必然的に習慣化していったでしょう。 しかしながら、打水という習慣が日本人の間で一般化する過程には、涼の手段や塵埃をおさえるような合理性だけではなく、家に客を迎え入れるための「礼儀作法」として普及する段階があったものと推測されます。「礼儀作法」としての打水が世間一般へ広がった理由と時期を考えた場合、やはり武家貴族社会の影響を無視することはできず、武家貴族文化と町人文化が融合した江戸時代に注目せざるをえないでしょう(ただし、江戸時代より前に早くから武家貴族文化の影響を受けていた京都などの都市では、石畳の路面に風情を出したり礼儀作法として行う打水が早くから一般町民の間で普及していた可能性もあります)。 安土・桃山時代より茶の湯が武家階級に普及して茶の作法が武士達に広がり始めましたが、同時に小笠原流礼法も武家社会において武士の礼法として普及しはじめました。相手に対して恭順を意味する「正座」も武家階級に広まりましたが、その座り方は茶の湯から始まったと言われており、公家や宮中の人々そして神主(かんぬし)などが座る場合にはあぐらであったことを考えれば江戸時代には既に武家階級において独自の礼儀作法が確立されていたと言えるでしょう。 江戸時代においては政治が安定していて平和な時代であったこともあり、武家階級では遊芸としての書・茶・画・香・花・連歌などの催しが盛んに行われました。さらに京都の公家とのさまざまな文化交流が行われ、江戸中期には江戸に上流武家貴族文化が成立し、変容しながら独特な江戸武家文化を形成していくことになります。 江戸の武家屋敷の旗本御家人や大名の家族などは幼少時代から江戸で過ごし、江戸で成人しました。その成長の過程で彼等は公式な場での礼節や行動規範そして言葉遣いを身につけていきましたが、能会や茶会そして歌会などでの文化作法も同様に習得することとなり、それぞれのルーツが様々な地域であった江戸の武家社会の間に共通の武家文化が広く普及していきました。 江戸の有力町人や商人達は娘達をこのような武家に女中奉公に行かせることを望んでいました。それは娘達にとって良縁を得る機会であったのと同時に行儀見習いや高い教養を身につけることができたからですが、上流武家屋敷に奉公へ行く事がある種の流行現象にまでなったとも言われています。結果として多数の若い女性がそのような武家へ奉公へ行きながら教育を受け、彼女達が江戸商人や有力町人の主婦となり商業文化や町民文化を形成する上で重要な位置を占めることとなります(※3-1)。 おそらくこのような階級間での文化伝播によって、茶道や武家礼法をはじめとする多くの礼儀作法が一般町民へ普及していったものと考えられます。商人にとっては店前の塵埃をおさえる習慣にすぎなかった打水も、やがては茶道における打水のようにお客を気持ちよく迎え入れる意味も含んだ習慣として商人達へ広まっていったとも考えられます(※3-2)。 一般町民への礼儀作法の普及を考えた場合、その伝達経路を武家から町人への伝播によるものだけと限ることはできないでしょう。実際、江戸中期には町民の間でも茶や花などの芸能を趣味として学ぶ人々が大量にあらわれてくるのと同時に、芸能を不特定多数の人々に教えることを専門とする職業的な「師匠」も登場してきます。茶の世界においても新たに「煎茶道」が成立して積極的に一般町民への茶の普及を目指す人々もあらわれ、伝書の執筆や茶書の印刷も盛んになり様々な啓蒙活動が活発化します。江戸文化が隆盛してくる中で一般町民がさまざまな遊技芸能に触れることで礼節 文化を身につけていったと考えることもできるでしょう。 明治維新以降、近代化の波の中で旧来の伝統芸能は衰退期を迎え、明治時代初期においては武家や町民の間で流行した遊芸文化の師匠にほとんど弟子がいなくなるような事態にまでなりました。しかしながら、危機感を抱いた遊技芸能は衰退から立ち直るために「行儀作法の習得」に役立つことを盛んに強調し、明治時代後半になると新興ブルジョワジーと呼ばれる人々を中心に伝統芸能に回帰し始めます。江戸時代の遊技芸能(特に茶道)は武士の男の世界を意味していた側面もありましたが、明治時代後期には婦女子の行儀作法習得のためにも重要視され、その文化の担い手として女性が大きな役割を持ちはじめました。そしてその女性達が学んだ礼節を各家庭で実践し、生活習慣として世間に定着させていったと考える事もできるでしょう。 このように、礼儀作法の普及と同じような経緯で作法としての打水も世間一般に習慣として広まっていったのではないでしょうか。そして涼みと土埃を抑える生活の知恵としての打水が、やがてお客を迎え入れる際の作法の意味も含んで一般的な習慣として根付いていくにあたり、一番大きな影響を与えたのは打水の作法を確立していた 茶道ではなかったかと思われます。 近代化とともに道路も舗装され、室内の気温を下げる技術が登場して打水という習慣は徐々に失われていきましたが、ひょっとしたら失われていったのは人をもてなしてこころよい関係を築きたいという気遣いの心なのかもしれません。 ※3-1... 日本の標準語は、東京の山の手を中心とした中流階級の言葉を元にしていると言われていますが、この地域は江戸時代には武家屋敷が並ぶ町でした。礼儀作法のみならず、武家階級に成立した江戸言葉が武家屋敷に出入りする町民によって広められて標準語として定着していったと考えられます。 ※3-2... 江戸末期には多くの江戸商人の間では既に現代のような「商い作法」が確立されていた模様です。慇懃なる態度でお客に接し、一銭の買物に対しても三拝九拝するような丁寧な対応をする商人の姿を記録した資料も残っており、江戸末期の江戸では広く礼儀作法というものが一般化していたものと思われます。 ※江戸から明治にいたる住宅環境の変化(参考)... 江戸時代には大衆文化としての町民文化が成立しましたが、明治時代になると住居においても大衆的な変化があらわれはじめました。明治維新以降積極的に西洋文化の導入が進められたものの、住居面において西洋式の住宅をつくったのは一部の限られた富裕層にすぎませんでした。急増しはじめたホワイトカラーが実際に採用したのは江戸時代の中・下級武士の住宅様式で、床の間、玄関、障子、ふすま、障子、庭などが備わった数寄屋造りの家でした。さらに明治時代の住宅においては「縁側」が一般的になっていき、フォーマルな形で対応する必要のない訪問者と場を共有するスペースの様式が広がりはじめました。明治時代には武家社会の住文化とライフスタイルが一般大衆化していったとも言えるでしょう。 また、江戸時代において武家屋敷には庭がつくられることが一般的でしたが、十七世紀から十八世紀にかけて武士階級のみならず富裕な町民層の間でも庭園が流行しはじめました。造園の専門書も刊行されて大衆化が進み、その庭園形式は茶の湯の「露地」を模倣したものが多く、飛石、蹲踞、石灯籠が庭園の「三種の神器」として定型化していきました(茶の湯の露地と日本庭園の融合です)。この傾向は明治時代以降にも引き継がれていきます。 ※江戸における都市行政(参考)... 江戸時代において江戸は百万人ほどの人口を抱えながらも伝染病などが流行しませんでしたが、その理由の一つとして江戸幕府の都市行政を挙げることができるで しょう。神田上水や玉川上水に代表されるような上水道の整備が進み、十七世紀末までにはほぼ江戸の上水道が整備されましたが、幕府は江戸の生活を支える重要な水が汚染されないよう常に注意を払っていたようです。玉川上水での船の運航を禁止するなど上水の管理を徹底すると同時に、下水と上水が混じる事がないよう下水路の整備も進めました。必ずしも江戸の住民全てが上水道の恩恵を享受した訳ではありませんでしたが、江戸の発展は水道整備の成功があったからと言っても過言ではないでしょう。 また、人々の排泄物は肥料としてリサイクルされ、廃材や一般ゴミは江戸湾の永代島で埋め立てられました。幕府は水道やゴミだけではなく生活環境全般の清潔さの維持に力を注ぎ、公共の道路の保全に関しても規則を設けていました(鳥取では通りを掃除して水を撒かなければならなかったようです)。近代的な衛生観念はまだ生まれていませんでしたが、清潔を重視した幕府の行政は少なからず一般町民の清潔意識に影響を与えたことでしょう。 |
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『洗う風俗史』 落合茂著 未来社 『事典・日本人と水』 新人物往来社 『日本の風俗の謎』 樋口清之著 大和書房 ミツカン水の文化センター発行 『水の文化』 『日本の庭園・第四巻 茶の庭』 中村昌生著 講談社 『茶道入門ハンドブック』 田中仙翁著 三省堂 『角川茶道大辞典』 角川書店 『南方録』 岩波書店 『表千家』 千宗左著 主婦の友社 『お茶の道しるべ』 千宗興 主婦の友社 『茶味俳味』 黒田宗光 淡交社 『日本の風俗の謎』 樋口清之著 大和書房 『江戸学入門』 西山松之助著 筑摩書房 『江戸時代町人の生活』 田村栄太郎著 雄山閣出版 『江戸時代の遺産』 スーザン・B・ハンレー著 中央公論社 『史料による茶の湯の歴史(下)』 主婦の友社 『大江戸復元図鑑<庶民編>』 笹間良彦著 遊子館 『東京風俗史』 平山鏗二郎著 八坂書房 『大江戸開府四百年事情』 石川英輔著 講談社 『図説・茶庭のしくみ』 尼崎博正著 淡交社 『明治物売図聚』 三谷一馬著 立風書房 東京都水道歴史館編集 「東京水道の歴史」 |
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